電波研究所における音声研究のはじまり

中田 和男

音声グループ在籍:1955.8〜1965.12.19
現職:東京農工大学工学部応用物理学教室 教授

 私が当時の電波研究所通信方式研究室から、国連の後進国開発技術援助計画にもとづく政府派遣研究員として、米国のMITのRLE(電子工学研究所)に留学させて頂いたのが昭和32年(1957年)でした。
 電波の有効利用のための狭帯域通信方式、とくに音声の伝送方式の研究として、分析・合成の研究を学びました。ちょうど計算機が音声研究にも使われはじめた頃でした。
 IBMのワトソン研究所など見せてもらい、これからは何がなんでも計算機を使わなければ世界におくれてしまうと思いこんで帰国しました。
 もちろん電波研にも計算機はありません。そこでまず当時の通信方式研究室で音声合成の研究をはじめることにしました。私はもともとハードはあまり強くありませんでしたが、幸い、鈴木さん(前所長の鈴木誠史さん)が協力して下さって、真空管式のターミナルアナログ形音声合成装置を試作し、単音節や「オハヨー」とか「アオイイエ」などの単語を合成しました。これが電波研究所における音声研究の産声でした。
 一方、帰国後あまりうるさく計算機、計算機と私がいうものですから、当時の甘利所長が日本電気の幹部の方に話され、鈴木さんと2人で日電の小向工場の中の研究所で音声分析と認識の研究をさせてもらえることになりました。当時の南武線は本数が少なく、20分も30分も、時には40分も待たされながら国分寺から小向まで通ったことを思い出します。
 そのうち電波研究所にも計算機が導入され、情報処理研究室ができ、尾方室長や小泉さん、中村さん達の御努力で音声入出力装置も設備され、電波研でも計算機が使えるようになり、私達も日電を引き上げ、こちらで研究を続けるようになりました。
 以上が旧電波研究所における「音声研究ことはじめ」のいきさつです。
 若さにまかせて、金(予算)や人(人員)のことも考えずに、ただ音声研究の面白さと、それなりの必要性の自覚だけで、がむしゃらな要求をしてきた私を、お釈迦さまの掌の上にのせて動きまわらせて下さった当時の甘利所長以下上司の方々の暖い御好意をつくづくと感じている現在の私です。
 あの電波研究所の中の公道沿いの木造建屋(今はもうありませんが)に、私達の青春と電波研における音声研究の揺籃期があったのです。
 その後、鈴木さん、角川さん、中津井さんはじめ大勢の努力で今日のようになったわけです。これから関西で仕事をはじめられる柳田さん以下の方々、どうか頑張って下さい。
 心からの声援を送り、成功を祈っています。

(鈴木誠史氏談)
小向→多摩川、小向駅→武蔵小杉の誤り
中田和男氏:1954 電波監理局から機器課調査係に転入
      1955.8 機器課調査係と第2電波課雑音係から通信方式研究室が非公式成立

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