音声研究室の想い出

高杉 敏男

音声グループ在籍:1967.6.1〜1982.3.31
(うち1979.6.8〜1980.7.12は企画部在籍)
現職:国際電気通信連合(ITU) 国際無線通信諮問委員会(CCIR)
専門事務局参事官(ジュネーブ在住)

 執筆を依頼された時、何を書いたら良いか、何が書けるかを良く考えて見た。昭和39年に研究所に入所して25年経過し、その内約15年間は音声研究室で音声の研究に携わっていたにも拘らず特に頭に想い浮かばない。色々の研究テーマを手掛けた事は事実であるが、書くべきという印象深いテーマが思い出されない。これは1つは現在、私がジュネーブにいて数年間、研究所の内情に馴染んでいない事にも起因していようが、一方では私が研究者としてズボラさの証明ではないかと考えている。色々の現象やデータに細心の注意を払い、一歩一歩の基礎固めが研究者に必要であるが、私はそれ無くして先に進む傾向がある。同時に論文を書き終えた段階で、研究を過去の事柄と考え、内容すらも忘れてしまう性格にも起因していよう。この為、私の指導者は大変苦労したにちがいない。私の目となり口となって、取り落としたテーマを拾い上げ、整理し、私の机の上に置き、私の単純な思考過程と結論を修正、味付けする等、いつまでも手の掛かる半人前の研究者だったと思う。優秀な上司には時折、私の様な研究者が存在する一例であり、私が手掛けた論文の内容から上司の研究内容を差し引くと、私独自で研究した部分は高々4割程度にすぎないと今でも考えている。
 私が初めて音声研究と関わりを持ったのは、入所してから確か2年目の昭和41年の事と思う。中田和男氏はすでに日立に移られ、鈴木誠史氏(前所長)がMITから帰国された直後の事と記憶している。鈴木氏からクリップドスピーチと情報伝送速度に関する2つの試験問題を提示され、前者を選択した事が音声研究への第一歩であった。以後、鈴木氏が上述した悩める上司となり、15年間、指導を頂いた。テーマの見つけ方、研究の方法、思考の組立て方、論文の書き方まで、1から10まで、いやそれ以上までご指導を頂いた。今、振り返ってみると、節目節目に良き上司、諸先輩に巡り会え、私を盛り立て援助して頂いた事が、研究所での生活を実り多いものにしたと考えている。
 それでも、角川靖夫氏(現総合研究官)の指導の下にFFTのプログラミングは国内では初めて成功し、早速、音声分析へ応用したり、所内へ配布した事を憶えている。昭和42〜43年の頃と思う。このFFTプログラムは次のテープレコーダの位相特性の測定、長時間音声スペクトルの測定、ホルマント周波数の推定と声帯波形の抽出にも適用され、スペクトル分析には無くてはならぬ道具となった。昭和47年から1年間フランスのCNET-Lannionに留学したが、それまでに作成したFFTやZ-変換による音声合成プログラム、各種ディジタルフィルタプログラムは、そのままCNETに残され、幾かなりとCNETの音声研究の役に立ったと思っている。丁度、執筆を依頼された3日後に、16年振りにCNET-Lannionを訪ね、その当時の音声研究に携っていた人達と会う予定になっている。良い機会故に、その後、私の研究がどの様に利用されたかを聞いてこようと思っている。
 私が入所しようとした時、現在、東京工科大学へ行かれた生嶋広三郎氏と NASDAの船川謙司氏が科学技術庁の海外研究員として戻ってこられた時で、その留学の話を聞いたり、当時の企画課長から何年後に海外留学をしたいか等のアンケートに自分の夢を書き込んだものである。音声研究室の伝統として研究のまとめとして、学位を取る事を目標の1つとしていた。研究所の中では稀にみるアカデミックな雰囲気を持つ研究室であった。留学後に始めた雑音低減の研究はこのもう一つの目標ともなっていた。研究所が研究を通じて私に何を可能にしてくれるか。いつも私が研究所に問い掛けている質問である。そして、現在まではその問いに十分答えてくれるに足りる研究所であったと思う。
 私がいた時代の音声研究室は郵政省の研究所としては亜流の代表みたいな研究室であった。が、論文数に於いては昭和42年の設立当時から数年間は研究所全体の4分の1程を占め、実績からして誰からも口を挟む余地を与えなかったと思う。今度、音声研究室が知覚機構研究室として正式に認可され、新しいスタッフと所掌、テーマでスタート出来る事は今迄の努力が報われた気がする。中田→鈴木→角川→中津井と受け継がれて来た郵政省の研究所の1研究室の立場の中でアカデミックな雰囲気をいつまでも保ち、同時に所への成果と同時に個人への業績をも配慮する研究室に発展する事を祈って止まない。各人の夢が実現可能な研究の環境作りと各人の一層の努力を期待したい。

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