電波研音声研の思い出

大山 玄

音声グループ在籍:1982.6.1〜(1987.5.1よりATR出向中)
現職:(株)ATR視聴覚機構研究所 主任研究員

 私が電波研の音声研を知ったのは確か学生の3年生の時だったと思う。そのころ私は東北大の学生で、城戸研究室に所属していた。今は静岡大の教授である鈴木久喜先生の下で、ヘリウム音声の修復(電波研では「修正」といっていたが、東北大ではこれに対抗して「修復」と言っていた)の研究をしていた。電波研の音声グループも丁度その時この研究をしており、その関係からつき合いが始まった。電波研では鈴木氏をリーダーとして中津井氏、田中氏、高杉氏等がバツグンのチームワークを組んで精力的にヘリウム音声関連の研究をしていた。マシンは研究室にはなく、センターマシンでA/Dして分析・変換合成を行っていた。明瞭度試験用のテープは鈴木氏がテープを手作業で切ったりはりつけたりして作られたとうかがっている。これで論文を数個出されて、結果的には中津井氏の博士論文になった。これと時を同じくして私は修士論文にしたが、博士論文はテーマを変更した。学会ではいつもツルんでおり、よく昼食を一緒にした。私が学会で発表するたびに中津井氏からは「修正した音声が原音声によく似ている」とはげましのコメントをもらい喜んでいたものだ。ある学会の時田中氏、高杉氏のホテルに行って初めてサウナに入ったのを覚えている。この頃は音声研の黄金時代だったと思う。この後でSPACを音声研究会で鈴木氏が発表され、これを聞いて大変面白いと感心した。電波研の発表会に出てきて聞いたこともある。この頃、PDP11/45が入り、当時では日本でも最先端の装置を持っていた。「ミニコンが室にあるといいよ。朝考えたアイデアが夕方までに検討できるから。」という高杉氏の名言はこのころ生まれた。私もSPACの応用で雑音中のホルマント推定を試みた。
 このあたりから次第に受難期に入った。鈴木氏が企画一課長になり、田中氏が沖縄に移り、中津井氏がカナダへ、という具合いに一家はバラバラになった。中津井氏が戻ったあたりで、宿無しだった私が拾われて、音声研に加わった。PDPもシステムがDOSだったのでこれをRT11に更新し、プログラムを書き換える作業を行った。鈴木氏も部長として研究職に戻り、大先輩の中田氏が農工大の教授として移られ、そこから学生を2人送り込まれたので、再び活発になった。ただ同時に高杉氏が他の研究室に出られたのが惜しまれる。鈴木氏はSPACの改良を行った。夏にグラフィックスのターミナルが入り、このドライバーを作成し、だいぶ使いやすくなった。そのうち田中氏も沖縄から戻り、学生も3人になり、室が窮屈になってきた。システムもRT11からRT11Mに替え、A/D、D/Aも更新し、ディスクも5MBのRKO5に加えて新たに20MBのRLO2を追加した。これに伴い、再びユーティリティーの書き換え、作成を行った。しかし、PDPはマシンが古くなったので、予算がついたのを幸いにVAX750に替えた。丁度VAX750が東大医学にすでに入っていたので、導入の参考にした。プログラムは大幅の書き換えを必要としたので、東大音声研の桐谷教授にお願いして、東大のVAXを使わせていただいて書き直した。A/D、D/Aが同じだったので、東大の関本氏、今川氏には気持ちよくプログラムを見せてもらい、大変お世話になった。ディスプレイターミナルは同じものがなかったので、学生の自動車で本郷まで運ばせた。数日は出張で出ていったが、そうばかりもしておられず、5時過ぎてから1時間以上かけて東大で夜遅くまで作業を行った。これにはさすがの関本氏も驚いておられた。このおかげでVAXに取り替えてすぐに研究を続けることができた。VAXのパワーでかなり多くの研究ができた。しかし良いことは長く続かず、鈴木氏が他の部に移り、中津井氏が一課長に移り、再び人数が少なくなった。その後、田中氏の室長時代となったが、これもあまり長く続かず、田中氏と私が同時に外に出る大変改となった。この時点で鈴木路線に沿った音声研は終わりを告げ、新たな柳田体制となる。この政変には私はまったくからんでいない。私がカゲの黒幕の一人と見られることがあるが、そんなことはない。私は最後まで知らされていなかった。
 最後に無宿者だった私を拾って下さった音声研の方に感謝します。研究の上では電通大の石坂教授にも大変お世話になったことをつけ加えておく。
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