CRLニュース 1995年3月第228号

関西支所の「長い一日」

管理課長 阿部真

 3連休が明け正月気分もこれまでと思いつつ、台所で朝食の後片付けをしている時、ヒザがガクンと折れたようになり足許が揺れる。地震、すぐ収まるかと思ったが、横揺れが続く。洗い物の湯を出し放しで、居間の石油ストーブを消しに走る。TVでも地震のテロップが流れる。幸いに物の少ない単身生活、棚のコップが落ちた程度で済んだ。東京で暮らす家族に電話「すごい地震だ。お父さんは大丈夫、これから出勤する」 と伝え、電車が止まるのを予想し、姫路市に住むS係長に車で迎えに来てくれるよう電話。淡路が震源、淡路を望む岩岡にある職場はどうなっているか、神戸の震度が出ない、気をもみつつ迎えを待つ。JRの踏切が壊れ迂回してきた車で神戸に向かう、通常1時間位だが途中加古川をわたる橋で大渋滞、車中到着した後の段取りを考える。
 9時過ぎようやく到着、自分の机の上の物が落ち、空気清浄機などもひっくり返っている。早く出勤し所内を一回りしていた管理課職員から「建物は大丈夫のよう、棚や機器が倒れている」と報告を受ける。今日は火曜日なので朝は部長会議、皆心配しているだろうから会議前にとりあえず第一報をFAXで入れる。午後KARCで、阪大や神戸大、ATRの人達と予定していた会合の中止連絡の手配をする。自分の目で被害確認の為、課員と所内-巡、思ったより被害は少なそうだ。地震直後停電したがすぐ復旧、ガスはプロパンなので安全確認をすれば使える。水は止まっているが受水槽に13t入っているのですぐには困らない。管理課は全員が出勤してきた。家が大変で出勤できないといった電話が入りはじめる、各研究室毎に職員の安否確認を指示、近所に住む食堂の賄いの人からも出勤できないとの連絡。管理課の職員が買い出しに走る。昼食は皆でカップラーメン。かけたままのTVが神戸の惨状を徐々に流しはじめる。この時点では、死者が千人を超すとは思わなかった。電話は殆どつながらないが、散発的に問い合わせの電話も入ってくる、遠くはドイツ、南極。給与支給日だが、日銀明石代理店が営業できない、現金支給ができない。給与を定日に払えないというのは前代未聞、手続き方法も良く分からない。一日があわただしく過ぎてゆくが、2名については安否が確認できない。夜になりTVでは長田区、須磨区の猛火をへリからの中継が伝える、連絡のないO君の実家は須磨区。TV、電気をつけたまま職場のソフアーで横になる。
 余震の続いた夜が明ける。O君が出てきた。実家に泊まっていたが、危機一髪助け出されるも家は全焼とのこと。喜んでいいのか、複雑な心境。お母さんはとりあえず寮に避難。ゲストルームにも避難者を受け入れられるよう準備、何人出勤してもいいように、食堂は炊き出し体制。各室の被害状況、宿舎の被害をまとめる。行方の分からなかったSTAフェローのTさん、大阪の友人宅から連絡、無事とのこと。
 本所との専用回線の復旧、また中断、すいている給水場所、近くの銭湯、と皆の耳に入れたい情報が集まるが、通常の連絡では追いつかない、同報FAXを使用しての「じしんニュース」を思いつく。19日から7日間で16号まで発行。大阪から80kmを自転車で帰還したT。被災地でのボランティア活動、全国からのお見舞い。地震直後の興奮が収まり、住居や交通網が完全に回復するのはいつのことになるのか不安は尽きぬが、復興に向けた活動が開始されている。

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