CRLニュース 1995年3月第228号

ボランティア奮戦記

山崎達也

 神戸市長田区では、阪神大震災で避難所暮らしをしている人が住民の約1/3と、市内で最も高い比率となっており、その数、約70ヶ所に4万6千人という。一部に食糧は足りているという報道もあるが、長田区では1日1食分の食糧の確保に窮々といった状態であった。
 1月26日午後8時40分頃、阿部、渡辺、山崎(達)の3名でデリカに乗って石油会社の蓄積倉庫の一角に急拠設けられた長田区災害対策本部物資配送センターへ向かった。国道2号線を使ったが途中目立った渋滞なし、というか須磨付近では前後に車の姿が見えないくらいだった。約1時間で目的地に到着した。区役所から来ている担当者に挨拶を終えた後、早速、軽トラックへの物資の積み込みにかかる。おにぎり、缶ジュース、煮豆の缶詰が入った段ボール箱を積み込んだのだが、一箱はさほど重くなく、自分が持てるだけ積み込めば良かった。箱の種類・数量を管理する人がついていて、その人の指示に従い作業を行った。
 昼間は約80名のボランティアが訪れ、約20台の車で配送しているという。夜になると人手が減る。食糧を積み込んだ後、我々も目的地に向かった。目的地の小学校では、ボランティアの指示に従い荷物を指定場所に下ろし、すぐに帰路へつく。センターへ戻ると息つく間もなく、次の避難所への配送のための積み込みが我々を待っていた。今度は弁当、パン、りんごなど。積み込んだ箱は山のようになるが、うまく紐かけをしてそのまま運搬する。この日の運搬作業は以上で終了。  ある避難所から「ご飯類」の食事を欲しいと電話が入る。担当者は事情を説明しているが埒があかない。そのうちセンターまで直談判にやって来た。担当者の必死の説得にようやく納得し、戻って行った。その後、さらに翌日の配布指示書の作成が残っている。配布指示書の作成も、パンには牛礼かジュース類を付けて、とか限られた品目の中で苦しいメニュ一作りが続く。我々もその間、物資の在庫確認のための表作りを行う。我々の作業が終わったのは12時半頃。区役所の職員達はまだ明日、明後日の食料の確保に奮闘されていたが、「ボランティアは寝て下さい。」のお言葉に甘え、床に薄い布団を敷き、毛布を被って横になる。寝袋等を持参したが、不要だった。我々が寝転んだ後も明日の食糧確保のため、あちこちへ電話をかける声が聞こえる。「九州大分の宇佐からカップラーメントラック1台分が送られてくる。」「来週1週間倉敷からおにぎりが1万個来る。それまで土、日をどうしのぐか。」担当者のあえぎが聞こえる。
 朝5時半、電話のやりとりで目が覚める。どうやら大型トラック3台に積まれたミネラルウォータが到着するらしい。自衛隊の人と倉庫への搬入を手伝っていたが、そのうちフォークリフトの出動があり、全てを自衛隊に任せ、待機所にすごすごと戻る。
 救援物資の中からおにぎり、弁当をお裾分けしてもらい、朝食を項いた。おにぎりのご飯は固かったが、労働の後でしかも全国から寄せられた善意の食べ物を項いていると思うと、コンビニのものとは一味も二味も違うように感じられた。7時を過ぎると昼間のボランティアの人たちも集まってきたので、彼らとバトンタッチをし、センターを後にした。

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